なにを書こうが勝手ではないのカト

はあちゅう主義。:小娘が何か言ってます。

萌え理論〜可能世界の恋愛感情〜 - はあちゅう途中報

なんだか楽しそうなことで、結構結構
伊藤春香@はあちゅうさんの言うことは、極論ではあるけど理はある
実現可能かどうかといえば、まず不可能だし、時代錯誤も甚だしいが・・・
あと、

ニートは国民の三大義務である

勤労、教育、納税の「勤労」をしてないから非国民だ」

とか、書くのは大人として適切ではないが

厨房の四言説

とまで言うのはどうかと、
実現可能か?不可能か?時代錯誤か?とかどうでもいいんではないかと

世界なんて偏見に満ちているし、自分の視点でしか世界を見てない人なんてやまといる
わざわざつるし上げるのも大人気ないと思うんだが・・・

しかしながら、

「小娘が何か言ってます」というエントリーって釣りでしょ?
釣られるほうが恥ずかしいと思う、
そもそも、全体をみないで、いかにも適当に考えたことを適当に書きましたみたいなノリだし
ニート云々の話も、教育改革とか向上心とかいうのも、全体見てない振りしたネタでしょ?
いい歳した大人が書く文じゃないもんねぇ

しかしながら、こういった人が多いと世界はよくなると思うんだけどねぇ
世界を複雑に考えない人って、結局のところ自分の見えないものは全部無視したり壊したりできるし

なんとかと、なんとかは使いようって言うしね

女性というものへの興味

女性視点のブログ、
ジェンダーフリーを叫ぶ人のブログ、
飲み会等で出会う女性たちとの会話。
お水や風俗関係の女性たち、
血族たる黒妹との会話

男性という立場である自分にとってどれもこれも非常に理解に苦しみ
逆に興味深い、だがどの立場の会話も腹を割った会話にはいたらない

「彼方の女と書いて「彼女」と読む」


とはまったくよく言ったもので、女性とは男性にとって決して理解し得ない存在だ

空中キャンプ - 女性の会話には正解があるらしい

で書かれていることは、かなりうなずけるところがあるがまさに謎の習性だ

占いに行く女性は、真に自分の運命を知りたいのではなく、踏み出せない自分の背中を押してほしいだけという印象はこの話と非常に合致する



いままでの少ない女性との対話において感じることは
女性は強固に自己の世界を形成し、自己の世界からしか世界を見ることができない
そしてその強固な透明な殻は強烈な力でしか破壊することはできないが、
破壊してしまえば、どうにでも再構成し放題な印象があるが、これは正しいのだろうか?



 ある程度の容姿をもつ女性にとって、15〜25くらいの時期は、多くの人々が
媚びてくれる圧勝の時期だ。だからこそ女性は増長し無意識に・意識的に傲慢になる
そして、それが正しい姿だと思う。
自己の世界や価値観を強固に持ち、それに従わない人間にたいしては非常に冷たい
女性は自分の世界にあるものしか許容しないし、容赦がない


ある意味、女性が男性のタイプの条件にあげる
「包容力」ってなんか自己弁護臭くて気持ちが悪い
女性は男性の自我など最初から認めるつもりはないし、認めるのは自分が理解しえる範囲での世界でしかない


とかいうと、女性は激怒するんだろうが


血族の女性は、自分に素の女性を見せる貴重な存在だ
彼女は自分の世界を強固に持っていてそれが世間から見て間違っていてもそれを認めようとしなかった。
彼女は、時間と共に彼女自身の中からその殻を叩き壊し、自己崩壊し長い年月をかけて精神を再構築した。
手遅れになるまえに幾ら、忠告しても、戒めても彼女には届きはしなかった


女性が創造的ではないとか、芸術家に向いていないとかいうと激怒するが
これは実際に事実であると思う、むしろ、芸術家をしている女性というのは女性でありながら
女性でない存在ではないのかと思う



基本的に女性は怖いし、女性は自分の敵には容赦なく攻撃するし、
女性は男性よりも、大人でありながら、子供のように残酷だから近づきたくはないが
研究対象として女性というのはなんとも興味深い


一度、腹を割って会話してみたいものが・・・・
が、こういった話を激怒せずに耳を傾けてくれる女性は
もはや女性的な女性ではないのかもしれないと思ったりした

”萌え”って無理に定義しなくちゃいけないのか?

正直、「萌え」論とかどうでもいいじゃないかと思う

そもそも、「萌え」自体が明確な方向性なしに自然発生的に広がり
それが、ゆるやかに内部定義され、よくわからないままに外部定義されてなりたっている

女性ブロガーや非オタ系ブロガーにとって、「萌え」なんて所詮一時のネタに過ぎないわけであり
そもそも、外的論点のみで語れる問題でもないし、かといって内的論点で語れる問題でもない

「萌え」なるものは、オタクの間でも明確な定義化されているわけでもないし
「萌え系」なんていうものも主観によって判断されているに過ぎず、もはやどこからが萌え系なのかは
いったもん勝ちである。

そんないい加減な集団を母集団から切り出して分析することなんてそもそもできるわけがない
たとえばアニメにおいても、おおまかに萌え系とされるものでも
1「萌え系でなければならないもの」と
2「商業的問題で萌え系にさせられたもの」
3「演出的関係上、少女であることが望ましい場合ために萌え」
に分類されうるし

また他方では、
A「明らかに性的対象として描かれる萌え」と
B「枕草子でいう”いとおかし”的に扱われる萌え」
にも分類されうる
それぞれは、かなり異なった性質を持つが、これが一般人に理解できるだろうか?


1、「萌え系でなければならないもの」
主軸としてたいした物語が存在せず専らキャラやノリで展開するもの
  A「明らかに性的対象として描かれる萌え」
    一例
     「りぜるまいんポニーキャニオンのMOEシリーズ
     http://www.pc-moe.com/

  B「枕草子でいう”いとおかし”的に扱われる萌え」(基本的には、すくなくとも公式には性的対象としては描かれない)
    一例
    びんちょうタン
    http://www.tbs.co.jp/bincho/
    


2「商業的問題で萌え系にさせられたもの」
主軸として、物語が一定存在し必ずしも萌えキャラを主体としないもの、または萌え要素が本来なかったもの
  一例
   砂ぼうず
   http://www.sunabozu.com/character/character.html
   (原作からアニメ化の際に一部に不要な萌えキャラ化が施されたパターン)   



3「演出的関係上、少女であることが望ましい場合」
物語の演出上、少女キャラを使うほうが効率がよい場合
(あるいみ、耳をすませばハウルの動く城天空の城ラピュタもこの分類にはいる思われるが)
   一例
   GUNSLINGER GIRL
   http://www.gunslingergirl.com/
   

すくなくとも、視聴を経ずに外的情報のみで萌えを語るのであれば、これらの作品はある意味同列にみえる可能性がある
砂ぼうずはそうは見えないだろうが)

わかりやすく言い換えれば、野菜コロッケも牛肉コロッケも見た目は同じであるから中身も同じであるし性質も同じである
というったレベルと大差のない前提情報で述べられた論理ではないか?という疑念がぬぐえない

誤解をしてもらいたくないのは、
「オタクは少女性愛的ではなく理性的である」という気はさらさらないということである
オタクだって、男であれば、性欲もあるし傾向としての少女性愛願望もあるものもいる
また、一部の萌え系と称されるものは、明らかに性的対象として描かれている
しかし、それがすべてではない

ようは「萌えには当然に性欲的な少女愛は含まれるが、それが全体ではない」といいたいだけだったりする
すべての萌え系キャラの根底に少女性愛が含有されているわけではない

また一般的に萌え系とされているもの(または誤解されているもの)であっても、
オタクだって、なんでもかんでも性的対象にするわけでもない
それは、受け手による再発信たり、且つエロ表現全開のエロ同人誌でも一例をみることができる

よつばと(現在公式リニューアル中につきCD紹介)
http://yotuba.com/cd_1.html

の同人誌は多数存在する、個人的にすくなくとも20冊は「よつばと」のエロ同人誌は見たが
どれひとつ主人公の「よつば」を性的対象として扱ったものはなかったし
今後もそういった同人誌が発売されることは、可能性はゼロではないが非常に低い

かといって、同人誌にまったく登場しなかったわけではない
性的対象としては扱われなかったが、わりと同人誌には登場している

彼女が性的に扱われなかったのは、原作において
「幼女だから」でもなく、「かわいくないから」でもないし、「魅力がない」わけでもない

「よつば」は十分かわいらしく描かれているし、幼女キャラを性的対象にした作品なんて山のようにある
そして彼女は、十分に魅力的に描かれている、ただ「性的対象としてみるべきではない部類の魅力」を持ったキャラ
であっただけのことである


カテゴリーを造らなければ分析することはできないのは事実だが、そのカテゴリー自体があやふやなものの場合は
そこにおける論議も定義もかなりいい加減なものになってしまう

そもそも、実消費者定義と傍観者の定義がずれることなんてよくある話だし、よくわからないものは全部一緒だと理解するのも道理だが
前提として、”オタク的嗜好は気持ち悪いし、肯定しえるものではない”という前提からスタートした論理しか存在しない気がするし
結論をそこに導くための情報しか興味がないように思えてならない

同様にオタクも、自己弁護的であるがゆえにその論理に正当性が帯びない。
萌えは当然に少女性愛の要素を含有するし、3次元代用的に扱われるケースもある
”萌え”はすくなくとも全肯定できる部類の概念ではないこともまた事実

ただ恋と愛が違うように、二次元キャラを”かわいい”と思うことと”恋する”ということと”愛する”ということは
相当なレベルの差があるし、オタク感でもその感情を共有しえない、はっきりいって二次元キャラに本気で恋できる人は
ネ申といって支障ないと思う、オタクだって肉欲の鎖につながれていることには変わりがないしそれを断ち切るのは容易ではない
どこかで、それを世間は混同しているのではないだろうか?解脱者と、解脱できず漂っている迷い人を



関西ローカルの番組で森永卓郎氏がハイヒール桃子氏にいった言葉
「桃子さんはキムタクは好きでも、どうのこうのなりたいとかは思ってないでしょ、それが萌えです」が印象的だ、
”萌え”とはオタクにだけ存在する感情ではないし、そもそも使うか使わないかだけで、一般人でもふつうに使えるという例だ

たとえばジャニオタの大多数も実際に彼らとどうのこうのなれるわけではない、彼女たちのなかでそれをわきまえている人は
あるいみオタクが二次元キャラで一時の癒しを得ている感情とかなり近い感情をもっているといえる
彼女らが見ているのは、造られた人格であり、存在しえなく虚像であるという点においては、2次元も3次元も大差はないのではないだろうか?

大多数のオタクにとって、二次元キャラなんて一時の慰めにしかならないし、そのことは本人たちが一番よく知っていることだ
暴論承知で言うならば、むしろ女性のほうが現実と妄想の区別がつかない人間が多い気がする


多数派側からみれば、少ないんだからまとめてしまえって理屈はわかるが、まとめるにはあまりにも強引すぎる
世間で”かわいい”がくそいい加減に使用され、またそれが当然のようにまかり通っているのと同じように
”萌え”なんていうのも、いい加減に使用され、論議の対象にすらなりえない存在であることが、本来の姿ではないだろうか?

なんだかよくわからないものを、無理やり定義化したがるのは日本人の悪い癖だと思う
また、そこに定義がないという僕の言葉自体がまたひとつの定義であることがまた否定できず
そういった意味で僕自身もその鎖につながれていることを実感せずにはいられない

人には向き不向きがあるということで

■[モテない]体育会系ジョークとオタクジョーク、その間にある深い溝

は非常に興味深いエントリーであるなぁ

オタク系の人間ではあるが、大人であるから体育会系のノリってのはわかるし
そこでもとめられる答えっていうのもなんとなくわかる

基本的に、体育会系の「馬鹿っぽさ披露」的ジョークはまあなんとかついていけるとして
(というか大人として、その辺は付き合うくらいの余裕はほしいし、自分も身に着けたい)
実際問題として、「エロ系」のジョークは、オタク系の人間にとっては正解をだせばよいってもんでもないと思う

その時点や、その人に対しての心証はよいかもしれないし、時に友好を深められるかもしれないが、それってかなり諸刃の剣である気がしないでもない

基本的にルックスや雰囲気によって、「許される者」と「許されない者」に分類される世界において
体育会系の人間がエロ系ジョーク言うのと、オタク系の人間がエロ系ジョークをいうのではそのリスクにはかなりの差がうまれる
体育会系の人が、女性にエロ系ジョークをいっても、「仕方ない人だなぁ」的な反応で済むことが予想されるが、オタク系の人間にとっては「本気でキモイ」とか思われるわけで、最悪、単なるジョークがかなりのダメージになる

自分と波長の合わない人間との一時の協和のために、自分自身の立場を捨てるのはさすがに分が悪い
面倒くさいから、スルーで終了ってのがパターンになるわけで、
もちろん気取っているやつもいるし、まじめすぎる風に映るかもしれない
エロ系については、乙女回路内臓・非内臓によっては根本的に体育会系が理解できない場合もある

S氏「あの生足!!涎でてくるなっ!あーセックスしてぇ!」

とかいった部類のモノや

某友人「あんなに、スカート短かったらレイプされても文句言えねぇな!」

とかは、僕のような乙女回路内臓型のオタクはジョークであれ口にするべきでないことという認識がある

エロネタだから嫌悪するのではない、誤解を覚悟で論ずるならば、
体育会系ってとりあえず、「良い女ならとりあえずやりたい」ってスタイルに僕には見える
実在し、公人や有名人ではない他者に対して欲情的なコメントを述べるのは生理的に拒否反応があるだけであり、エロくないとかいうつもりは毛頭ない

実際、体育会系的なエロ系ジョークもオタク同士の間では意外と普通に交わされている例も多い
卑下の方法についても体育会系が「馬鹿度」で卑下するなら、オタク系は「痛い度」で卑下する、ある意味基本とする部分は大筋で同じだと思う


たとえば、僕はmixiのエントリーに昔

「部屋を掃除していたらロリパラ
  同人誌が2〜3冊発見された、さすがにこれは人間失格ではないかと一人呻く(藁」


的なことを書いたりしたこともある



ほかにも、オタク同士でいくカラオケで、女性声優の歌を振り付けやコール付きで熱唱とか
(ただネタではなく本気のやつもいなくはないが・・・)


イベント会場にて、痛いグッズでフル武装とか



ただ、どれもオタク同士のみに通用し、一般人には「変人」扱い
よくても完全無視、その後、存在自体をスルーな結末が待っているわけで

オタク系の人間もエロ系のネタやジョークを好まないわけではないが、それが許される場面が非常に体育会系に比べて限定されている事実がある

オタクと体育会系はお互いのコミュニケーションの違いを知らなすぎるわけ。まぁ、別の文化圏だからな。そりゃ接触無いわ。別にどっちが正しいってわけじゃなく、必要なのは、お互いを知ることなんだけどね…。

と結ばれているが、これってかなり理想論で机上論な気がしてならない

結局、その属性自体が共通言語どころか代替言語にすらならないオタク系と
共通言語にならなくても代替言語にはなりうる体育会系の溝はかなり深い

結局は主流系であるか、亜流であるかという問題を解決できない現実がいまだに存在するわけで

最終的には、空気を読むオタク系に残される道は二つしなかない
「自分に被害をあたえない共通言語を身につける」or「華麗にスルー」

オタクにとっては、ガンダムクラスのマニア度の低い話でも一般にとっては理解しがたい世界であり
また、そもそも、理解しようなんて思ってくれないわけで

つまり

「世の中に不満があるなら自分を変えろ、
  それが嫌なら耳と目を閉じ孤独に暮らせ
   それも嫌なら・・・・」

ってことじゃないカト

新鮮な感情。

人間の怒りや苦悩の感情の大方は本人に問題があるのは事実であると思う

が・・・
環境や日常的な嫌悪すべき誘惑が「他者の勝手な価値観のため」に準備され
また、自分勝手に、他者の魅力やありかたを規定されるようなこと
それが善意であれ悪意であれ僕にとって非常に迷惑な話だ

本日メガネを購入した、それを機会にして部屋に姿見を導入する
鏡は偉大である、その通常の鏡ゆえ像は左右反対ではあるが、自己を再認識すること
自己から逃げないことは非常に重要だ

平たくいえば、最近またかなり太った。
太りやすい体質なうえに尋常なない量が準備される食事
「好意」であり、「容姿の価値観が違う」とわかっている
しかしながら、非常に不愉快であり腹立たしい

どうでもよいことだが、僕は人を憎まないし、憎めない
他人に傷つけられたとしても、次の日にはその感情は薄れる
むしろ、そのときに発した自分の言葉が他人を傷つけらのではないか?
自分の軽率な行動や、反社会的または反道徳的な論理をおしつけてしまったのではないか?
と不安になったりすることはあっても人を憎んだりはできない

が、唯一の例外は肉親である
今鏡を見ながら、心の奥から湧き上がる殺意を必死に抑制している
もちろん自分の責任を否定して、余計なお世話とはいえ善意で接している人物に対して
凶行に及ぶことは異常なる心理であるし、その程度を抑える理性は持ち合わせている

しかしながら、それが善意であるがためにそれを拒めないというこの最悪の状況が
とめどない殺意を心の奥から噴出させる

自分自身の精神が不安定になると自己否定や自己放棄をするタイプであるがゆえに
その状況によって、簡単なトラップにもはまってしまう
それが悪意であれば、憤然と抗議することもできるが、善意であるからこそ否定できない

そのどうしようもない感情が殺意になるのではないだろうか?
僕は思う、殺されるべきでない「善人」が殺される事件は少なくない
それも通り魔とかいったものではなく、その人を知る人物によって殺害される場合において

「善悪の価値観の相違」があり、殺害者側がその相違の存在を理解し、お互いの価値観を尊重するからこそ、そしてそれぞれの価値観を守ろうとするからこそ殺意が生まれるのでないか?と

真に残酷なのは、「悪意」ではない
人にとって必要のない「善意」こそが人を強く追い詰めるのだと

僕は、この世に「殺したいほど」どころか「殴りたいほど」程度にも憎んでいる他人はいない

そして、尊重されるべきでない異常な価値観を一時期にもち、
「無自覚な悪意」によって僕の心を深く傷つけた実妹でに対してさえも
「殺意」にいたる感情を抱いたことは一度もない

無自覚で自分勝手な「善意」の押し売りこそが最大の力をもって人を傷つけるのだと
そして、相手が善であるからこそ抗議できない状況が鬱積し、何かをきっかけに爆発
するのだと思う

考えなくてよい事を、また考えてしまった

はてなブックマークは麻薬

あえて、トラックバックはしないけど
とかいうエントリーに、ちょいと同意
やっぱり、自己顕示欲って誰にもあるし、認められたいって思う

一時期の個人HPブームの時も、一度カウンターが回ると、
それを維持したい気持ちになって異常なほどに時間を使ってしまうことは起こったわけで、それと変わんないともいえるけれども

はてブの怖いのは、ゲームとかみたいな「ヤラサレテル感」が実感できるタイプのものではなく、自発的にやってる感がでるところじゃないかと
それに、はてブ関連の記事って、なんか社会に提言してるって勘違いさせられるのが怖いんじゃないかと

内容に関しても対象がmixiみたいな一定の関係性がある人々ではなく
多種多様な人々を対象になるから、単に考えが伝わればいいというレベルを超えて、文章の完成度やちょっとした誤字脱字とか気をつけなくちゃいけないと時間のかかる要素は大きい

個人のページでネタ系とかだと、限界がきてもういいやってなるんだけど
はてブって特にテーマって限定されてなくって、時事も哲学も悪口もなんでもいいし、ソースはいくらでもネットにあるし
何よりも、「思考し・発信し・評価をえれる」っていう構造と、それぞれの記事に価値があることが問題なんだよねぇ

実際、面白い記事も多いし。
時間をかけて丹念に書かれた理路整然とした、新しい知識をあたえてくれる、
だから「はてブ」は怖い

そもそも、個人単位で常に書きたいことが沸いてくるなんてことはそんなにないわけで

最初書いた記事とかが、user数稼げたりするとハマルんだろうけど
最初書こうって思うことって、自分の普段の生活の中で長い期間に漠然と感じていたことを文章にしてるわけで、実はものすごい時間をかけられている記事なわけで、
普通の人間が生活の中で感じる伝えたいこと・伝えるだけの価値があるものってそんなにたくさんあるものじゃない

でもブログを書き続けなくちゃいけないような気持ちがある
自己顕示欲が、定期にコメントしてくれる人の存在が、
面白い内容を更新し続ける他のブロガーの存在が、
また、面白い記事を書こうという気持ちにさせる
そして、自分の中にないテーマをほかのブログやニュースなどから探しはじめる

思考を停止して生きるのは愚かなことだ、だけど人間はすべてのことを知ることはできないし、知る必要もない
そもそも、自分の生活に根ざさない情報を元にした記事なんて本当の価値は生まれてこない

直接しらないことは、他人によって伝えられた情報をあてにしなくちゃいけない、でもその情報が正しいって証拠はどこにもない
情報っていうのは直接みた人間の利害によって都合よく書き換えられるし、報道だってもはや公平性をもった報道など存在しない、すべて感情ある情報だ、たとえアナウンサーが一言も発しないとしてもカメラワークだけでも感情が映りこむ

自分に必要な情報だけど、自分ではわからないこともあってそれは自分なりに判断するしかないときもある
たとえば、僕は女性ではないから、女性の感覚や情緒を言葉や情報を通じて知ることはできるけれど、それが真実かどうか確かめる術を持たない、だから僕はそれが自分の生活や今度に必要な情報だと思ったらそれを想像し想定し自分なりに規定するしかない
でも、そんな方法を使ってまで知らなければいけないこと、考えなければいけない事って実は少ない
知っておくべきことと、知らなくてよいことの分別は難しいけど
いまの「はてブ」の構造って知らなくてよいことまで無理に知っておくべきことって思わせるってことなんじゃないかと思った

そして、この文章自体が、心底考えなくてよいことで、時間の浪費だと思う
真に必要と不要を分別するのって難しい

非モテとか、オタクとかについての戯言 その4

何故「純愛」・「近親恋愛」がオタクで人気なのか?〜オタク的恋愛論とは〜

基本的にオタクは恋愛を半ばあきらめた人が多い、それは、自分の価値にとにかく自信がないうえに、
とりあえずオタクっていうだけでキモがられていると思っているためもある(思い込んでいるともいえるが・・・)

オタクが純愛主義であるのも、近親恋愛や、幼馴染といった属性を好むのもすべては自己価値の暗黙の否定であるところが大きい

これは、電波男にも語られていることであるが、
近親者は血の鎖から逃れることはできないし、幼いころから生活を共にする義姉妹や義母はその関係性の前提においても
すくなくとも無関係ではないという点において他人であるものよりも親しくなる可能性をつくりやすいという点があり
いわゆる、恋愛資本主義でのステイタス以外の面による判断も期待できる環境にあるという妄想がなりたつ環境であることが重要である

現在のエロゲーは物語の重要性の高さから、主人公たる男子にも容姿や一定の背景が必要とされるが、過去においては
何故これほどに、モテるのか意味不明な特徴がなく個性の殺された主人公が定番であったのも、同じ理由である


自分に客観的な愛される価値がないという問題の解決を模索した結果が、一連の妹ブームにつながる道であったといえる


そもそも何故「妹」なのか?
1、とりあえず年下であるという前提であり、属性としては基本は「従」
2、とりあえずわりと若年であるため、純真なキャラとして成り立ちやすい
3、近親者ということもあり、わりとわかりあえる環境にあるという幻想(笑)


ぶっちゃけ、年下なら、なんとか主導権とれるだろうという妄想だと思うのです
(実際はそんなことは絶対にないんだけど)



真逆とも言える人気の属性「ツンデレ

「普段はそっけなく、もしくは突っかかってくるくらいなんだけど、素直になれないだけでベタぼれしている女性」
で大体あってるはずなんだが・・・

文書に表した時点で、一般人には非常にキモイがられそうな気がする
しかしながら、こういったキャラは実は少女漫画に多く登場するキャラである、ただ男性キャラではあるのだけれど


基本的に、とりあえず「愛されたら愛しましょう」という上から目線の恋愛感であるといってもよい
要するにオタク=シンデレラ症候群といえばわかりやすい