”萌え”って無理に定義しなくちゃいけないのか?
正直、「萌え」論とかどうでもいいじゃないかと思う
そもそも、「萌え」自体が明確な方向性なしに自然発生的に広がり
それが、ゆるやかに内部定義され、よくわからないままに外部定義されてなりたっている
女性ブロガーや非オタ系ブロガーにとって、「萌え」なんて所詮一時のネタに過ぎないわけであり
そもそも、外的論点のみで語れる問題でもないし、かといって内的論点で語れる問題でもない
「萌え」なるものは、オタクの間でも明確な定義化されているわけでもないし
「萌え系」なんていうものも主観によって判断されているに過ぎず、もはやどこからが萌え系なのかは
いったもん勝ちである。
そんないい加減な集団を母集団から切り出して分析することなんてそもそもできるわけがない
たとえばアニメにおいても、おおまかに萌え系とされるものでも
1「萌え系でなければならないもの」と
2「商業的問題で萌え系にさせられたもの」
3「演出的関係上、少女であることが望ましい場合ために萌え」に分類されうるし
また他方では、
A「明らかに性的対象として描かれる萌え」と
B「枕草子でいう”いとおかし”的に扱われる萌え」にも分類されうる
それぞれは、かなり異なった性質を持つが、これが一般人に理解できるだろうか?
1、「萌え系でなければならないもの」
主軸としてたいした物語が存在せず専らキャラやノリで展開するもの
A「明らかに性的対象として描かれる萌え」
一例
「りぜるまいん」ポニーキャニオンのMOEシリーズ
http://www.pc-moe.com/
B「枕草子でいう”いとおかし”的に扱われる萌え」(基本的には、すくなくとも公式には性的対象としては描かれない)
一例
びんちょうタン
http://www.tbs.co.jp/bincho/
2「商業的問題で萌え系にさせられたもの」
主軸として、物語が一定存在し必ずしも萌えキャラを主体としないもの、または萌え要素が本来なかったもの
一例
砂ぼうず
http://www.sunabozu.com/character/character.html
(原作からアニメ化の際に一部に不要な萌えキャラ化が施されたパターン)
3「演出的関係上、少女であることが望ましい場合」
物語の演出上、少女キャラを使うほうが効率がよい場合
(あるいみ、耳をすませば・ハウルの動く城・天空の城ラピュタもこの分類にはいる思われるが)
一例
GUNSLINGER GIRL
http://www.gunslingergirl.com/
すくなくとも、視聴を経ずに外的情報のみで萌えを語るのであれば、これらの作品はある意味同列にみえる可能性がある
(砂ぼうずはそうは見えないだろうが)
わかりやすく言い換えれば、野菜コロッケも牛肉コロッケも見た目は同じであるから中身も同じであるし性質も同じである
というったレベルと大差のない前提情報で述べられた論理ではないか?という疑念がぬぐえない
誤解をしてもらいたくないのは、
「オタクは少女性愛的ではなく理性的である」という気はさらさらないということである
オタクだって、男であれば、性欲もあるし傾向としての少女性愛願望もあるものもいる
また、一部の萌え系と称されるものは、明らかに性的対象として描かれている
しかし、それがすべてではない
ようは「萌えには当然に性欲的な少女愛は含まれるが、それが全体ではない」といいたいだけだったりする
すべての萌え系キャラの根底に少女性愛が含有されているわけではない
また一般的に萌え系とされているもの(または誤解されているもの)であっても、
オタクだって、なんでもかんでも性的対象にするわけでもない
それは、受け手による再発信たり、且つエロ表現全開のエロ同人誌でも一例をみることができる
よつばと(現在公式リニューアル中につきCD紹介)
http://yotuba.com/cd_1.html
の同人誌は多数存在する、個人的にすくなくとも20冊は「よつばと」のエロ同人誌は見たが
どれひとつ主人公の「よつば」を性的対象として扱ったものはなかったし
今後もそういった同人誌が発売されることは、可能性はゼロではないが非常に低い
かといって、同人誌にまったく登場しなかったわけではない
性的対象としては扱われなかったが、わりと同人誌には登場している
彼女が性的に扱われなかったのは、原作において
「幼女だから」でもなく、「かわいくないから」でもないし、「魅力がない」わけでもない
「よつば」は十分かわいらしく描かれているし、幼女キャラを性的対象にした作品なんて山のようにある
そして彼女は、十分に魅力的に描かれている、ただ「性的対象としてみるべきではない部類の魅力」を持ったキャラ
であっただけのことである
カテゴリーを造らなければ分析することはできないのは事実だが、そのカテゴリー自体があやふやなものの場合は
そこにおける論議も定義もかなりいい加減なものになってしまう
そもそも、実消費者定義と傍観者の定義がずれることなんてよくある話だし、よくわからないものは全部一緒だと理解するのも道理だが
前提として、”オタク的嗜好は気持ち悪いし、肯定しえるものではない”という前提からスタートした論理しか存在しない気がするし
結論をそこに導くための情報しか興味がないように思えてならない
同様にオタクも、自己弁護的であるがゆえにその論理に正当性が帯びない。
萌えは当然に少女性愛の要素を含有するし、3次元代用的に扱われるケースもある
”萌え”はすくなくとも全肯定できる部類の概念ではないこともまた事実
ただ恋と愛が違うように、二次元キャラを”かわいい”と思うことと”恋する”ということと”愛する”ということは
相当なレベルの差があるし、オタク感でもその感情を共有しえない、はっきりいって二次元キャラに本気で恋できる人は
ネ申といって支障ないと思う、オタクだって肉欲の鎖につながれていることには変わりがないしそれを断ち切るのは容易ではない
どこかで、それを世間は混同しているのではないだろうか?解脱者と、解脱できず漂っている迷い人を
関西ローカルの番組で森永卓郎氏がハイヒール桃子氏にいった言葉
「桃子さんはキムタクは好きでも、どうのこうのなりたいとかは思ってないでしょ、それが萌えです」が印象的だ、
”萌え”とはオタクにだけ存在する感情ではないし、そもそも使うか使わないかだけで、一般人でもふつうに使えるという例だ
たとえばジャニオタの大多数も実際に彼らとどうのこうのなれるわけではない、彼女たちのなかでそれをわきまえている人は
あるいみオタクが二次元キャラで一時の癒しを得ている感情とかなり近い感情をもっているといえる
彼女らが見ているのは、造られた人格であり、存在しえなく虚像であるという点においては、2次元も3次元も大差はないのではないだろうか?
大多数のオタクにとって、二次元キャラなんて一時の慰めにしかならないし、そのことは本人たちが一番よく知っていることだ
暴論承知で言うならば、むしろ女性のほうが現実と妄想の区別がつかない人間が多い気がする
多数派側からみれば、少ないんだからまとめてしまえって理屈はわかるが、まとめるにはあまりにも強引すぎる
世間で”かわいい”がくそいい加減に使用され、またそれが当然のようにまかり通っているのと同じように
”萌え”なんていうのも、いい加減に使用され、論議の対象にすらなりえない存在であることが、本来の姿ではないだろうか?
なんだかよくわからないものを、無理やり定義化したがるのは日本人の悪い癖だと思う
また、そこに定義がないという僕の言葉自体がまたひとつの定義であることがまた否定できず
そういった意味で僕自身もその鎖につながれていることを実感せずにはいられない