新鮮な感情。

人間の怒りや苦悩の感情の大方は本人に問題があるのは事実であると思う

が・・・
環境や日常的な嫌悪すべき誘惑が「他者の勝手な価値観のため」に準備され
また、自分勝手に、他者の魅力やありかたを規定されるようなこと
それが善意であれ悪意であれ僕にとって非常に迷惑な話だ

本日メガネを購入した、それを機会にして部屋に姿見を導入する
鏡は偉大である、その通常の鏡ゆえ像は左右反対ではあるが、自己を再認識すること
自己から逃げないことは非常に重要だ

平たくいえば、最近またかなり太った。
太りやすい体質なうえに尋常なない量が準備される食事
「好意」であり、「容姿の価値観が違う」とわかっている
しかしながら、非常に不愉快であり腹立たしい

どうでもよいことだが、僕は人を憎まないし、憎めない
他人に傷つけられたとしても、次の日にはその感情は薄れる
むしろ、そのときに発した自分の言葉が他人を傷つけらのではないか?
自分の軽率な行動や、反社会的または反道徳的な論理をおしつけてしまったのではないか?
と不安になったりすることはあっても人を憎んだりはできない

が、唯一の例外は肉親である
今鏡を見ながら、心の奥から湧き上がる殺意を必死に抑制している
もちろん自分の責任を否定して、余計なお世話とはいえ善意で接している人物に対して
凶行に及ぶことは異常なる心理であるし、その程度を抑える理性は持ち合わせている

しかしながら、それが善意であるがためにそれを拒めないというこの最悪の状況が
とめどない殺意を心の奥から噴出させる

自分自身の精神が不安定になると自己否定や自己放棄をするタイプであるがゆえに
その状況によって、簡単なトラップにもはまってしまう
それが悪意であれば、憤然と抗議することもできるが、善意であるからこそ否定できない

そのどうしようもない感情が殺意になるのではないだろうか?
僕は思う、殺されるべきでない「善人」が殺される事件は少なくない
それも通り魔とかいったものではなく、その人を知る人物によって殺害される場合において

「善悪の価値観の相違」があり、殺害者側がその相違の存在を理解し、お互いの価値観を尊重するからこそ、そしてそれぞれの価値観を守ろうとするからこそ殺意が生まれるのでないか?と

真に残酷なのは、「悪意」ではない
人にとって必要のない「善意」こそが人を強く追い詰めるのだと

僕は、この世に「殺したいほど」どころか「殴りたいほど」程度にも憎んでいる他人はいない

そして、尊重されるべきでない異常な価値観を一時期にもち、
「無自覚な悪意」によって僕の心を深く傷つけた実妹でに対してさえも
「殺意」にいたる感情を抱いたことは一度もない

無自覚で自分勝手な「善意」の押し売りこそが最大の力をもって人を傷つけるのだと
そして、相手が善であるからこそ抗議できない状況が鬱積し、何かをきっかけに爆発
するのだと思う